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冷え込んで、雪渡りができそうだったので、林の中を散歩しました。今日の放射性物質拡散はややこちら側にも来そうだったので、用心してマスクにスキーウェアの息子です。
遍く照らす日の光、分け隔てなく、まっすぐに、です。
南無大師遍照金剛 
「南無」は捧げる、帰依するというような意味合い、「大師遍照金剛」は弘法大師の戒名です。
お遍路は、どこにも、ここにも存在します。

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スポンサーサイト
みずたまり、いろいろ撮影してみました。それぞれ、それぞれの美しさです。
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3/23
今日は窯の補修と山で伐採と考えていたが、家内が息子を保育所まで車で送った際にスタンドで給油できたとの報が電話で入り、急遽軽トラックで給油へ向かった。3000円の制限給油だったが、軽トラックは満タンになって、持っていった携行缶にも入れられた。こういう情報はぜひ防災無線なりで流していただきたいことだが、どういうわけか口コミで知る人ぞ知るという状況になってしまっている。ぜひとも公平さをお願いしたい。思いもかけず給油できたのと、顧客先のうちの一つがそろそろ炭がなくなるとも聞いていたので、数件まとめて仙台まで配達に出ることに予定を変更する。家内の実家の仙台の両親の様子も見たかったので、急いで荷造りを済ませ家内も乗り合わせて弁当持参で仙台へ。家内は途中で分けることがあるかもしれないと、道すがら、車の台数が少ないのと開店している店が少ないの以外はいつもの町の様子で、復旧するスピードに驚く。途中山間に入ったところで、道路がでこぼこになってしまっていたところが数カ所あった。スタンドは開いている場合はもれなく長い行列ができていた。仙台市内に入ってから閉まっているコンビニなどのショウウィンドウに新聞紙や段ボールで店の中を見えないようにしていた。最初はガラスが割れてしまったのかとも思ったが、理由はすぐにわかった。おそらく強奪を恐れてのことだろう。いやいや物騒なことになっているもんだと感じた。聞けば七ヶ宿町内でも灯油泥棒が出現したも言っていた。家内と運転を交代しあって車中で交互に弁当を食べ、市内中心部へ。まずは個人のお宅への配達。ちょうど地震のあった日に注文をいただいていた方。ついでに炭のパウダーを差し上げた。中学校と保育所に行った子供たちのお迎えの時間もあったので、急いで移動。国分町で2件、一番町で1件配達を終える。そして家内の実家へ。震災後、声は聞いていたが顔は見ていなかった義父母に会うことができた。義父は風邪をひいて熱があるらしかった。家は思っていたほど大変な状態にはなっていなかったようだった。うちから汲んでいったわき水(ポリタンク1つ+ペットッボトル2本)と炭パウダー、それとレギュラーガソリンの入った携行缶を置いていく。顔を見てそこそこに出発、途中支援物資を送るための段ボールの調達と足りないものの買い物にホームセンター、ドラッグストアなどに立ち寄る。欲しいものはみな同じと見えて、品切れだったりした。段ボールは運良くちょうどよさそうな大きさのものを大量に調達できた。行きは行きで販売する炭を積んでいき、帰りは帰りでまたなにか有用なものを積んでかえってこれるというのは、実に得をした気分になる。なにかいい仕事をした気にさえなったりする。時計を見ると通常の時間のお迎えは間に合いそうになかった。こんなこともあろうかと友人宅にいさせてもらうことをお願いしてあったので安心して帰路へ。仙台往復でガソリンの消費は半分くらいだった。
 ひさびさの遠くへのお出かけは疲れた。日は暮れかけていたが、もうひとがんばり。自宅につくなり家内は子供たちを回収、私は薪運びと犬の散歩とボイラー点火。友人から来たメールで紹介してあったサイトに飛ぶと「ノルウェー気象研究所」のリンクがあり、そちらに飛ぶと、ヨウ素、セシウム、キセノンの各放射性物質の拡散の何日か先までの予測のシミュレーション(それぞれトータルと地表近くの分)の動画があり、これはとても参考になると、急いで配布メールを友人知人に流す。3/25は危険日で外出は控えた方がよさそうだった。その旨も付け加えて情報を流した。
 風邪の回復具合はいまひとつだったが、夕食の白菜鍋にガーリックと一味をたっぷりかけて食べ明日の回復を願って床についた。

ノルウェー気象研究所のシミュレーション
http://transport.nilu.no/browser/fpv_fuku?fpp=conccol_I-131_;region=Japan

3/24
 目覚めると随分風邪は回復していた。随分楽になった。犬の散歩、子ども達をバスに乗せるなどのいつもの日課がいつものようにできることに不思議な感覚があった。相変わらず様々な情報が入ってくるので返事をしたり、閲覧したりで時間が過ぎる。中には「至急ご覧下さい!」なんてものがあったりして、それが2時間の中継画像だったりして、さすがにきりがないので、夜子ども達が眠ってから見ようと、そこそこで切り上げ仕事を始めることにする。炭小屋の中の片付け方で昼になる。放射能除去用にと手渡していた炭のパウダーがそろそろ底をつきそうになったので、午後はパウダーづくり。まだまだ手渡したい人、贈りたい人、あれこれ考えると至急作らねばならない。通常は加工した時に出るという程度の副産物なのだが、パウダーを作ろうと思うと、半分以上が飛んでいってしまい大変効率が悪い。ポリ袋で囲ったりするが、どうもうまくいかない。囲うと、グラインダーの回転により発生する風があるため、パウダーを逃がさないようにとすると、その風も抜けないことになる。あれこれ模索して閃いた!!掃除機で吸うようにしたらどうだろう。逃がさないようにするのではなく、逃げるなら集めてしまえ作戦。このパウダー加工に使ってもいいような掃除機が2台(10年使ったサイクロン方式でヘッドが故障し粗大ゴミになる予定だったものと、紙パック式のもらいもの)あった。紙パック式の方がよさそうだったが、あいにく替えの紙パックがなく、サイクロン方式で試みることにした。筒状の袋のこちら側でグラインダーによる炭の粉砕、あちら側は掃除機の吸引口を取り付け漏れないように密着し、スイッチオン。改良はされたが、すぐに掃除機本体の方がパウダーで目一杯になり、吸引力が落ちる。そんなこんなしているうちに夕方になってしまった。計算してみると1時間半で乳児用のミルク缶に半分程度にしかならない。重さにして360グラム。削った炭の量から考えてもかなりが大気中に飛んでいっている感はゆがめない。これはこれで大気中の放射性物質を吸収してくれることになっているだろうか。こじつけのなぐさめ。作業する私はパウダー吸いまくり。顔も真っ黒になり、ただでさえちょっと強面なのがさらに人相悪くなる。暗くなる前の少しの時間、棟木の一部が重みで破損してしまった薪小屋の雪下ろしをし身体を結構ハードに動かした。徐々にしないと続かない。なまっているのを痛感する。
 家内は午後から件の東松島への支援物資の仕分けと梱包作業に出ていた。結構集まっているようだった。調達した段ボール箱がすべて使用され50箱くらいになるようだった。翌日まだまだ集まる分を梱包し翌々日3/26に運ぶことになったそうだ。水守人の会でも縁のある被災地へ支援をしようという話が持ち上がり、段取りを進めることになった。

2011/3/24
商売柄空き箱や段ボールが豊富にある我が家なので、息子はガムテープ細工が大好き。
怪獣とロボット。結構いいセンスしてるかも(単なる親ばか!?)


 暗くなってから、炭のパウダー製作について外注も視野に調べてみると、ミクロン単位で受託してくれる会社があったので、問い合わせのメールを入れる。見ると炭の粉砕受託も実績があるようだった。深夜までかかって見た中継画像は広瀬隆さん(1970年代からずっと原発の危険性を指摘)と広河隆一さん(チェルノブイリの写真集など出版のカメラマン、ジャーナリスト/今回も福島現地に入って取材、支援を続けている)のものだった。相変わらず福島原発のことは深刻のようだった。深刻な状況が続く中、田中優さん(未来バンク)と小林武史さん(音楽プロデューサー/APバンク)の対談は、具体的な将来のエネルギーのビジョンが開けるようで興味深い。ぜひご一読を。

http://www.eco-reso.jp/feature/cat1593/20110318_4983.php

眠い眠い。久しぶりの夜更かしだった。

3/25
 今日は放射能拡散の要注意日だが、家内と娘は中学校の離任式、息子は保育所でお別れ会だった。できるだけ外に出ないようにしたほうがいいので、家内が車で送った。ノルウェー気象研究所のシミュレーションは毎日更新されている。まもなく学校、保育所は終わりだが、少し落ち着いたとはいえ、まだまだ福島原発からの拡散は続くだろうからこれから先数ヶ月は風向きには注意しなければならない。七ヶ宿は防災無線で折にふれイモチ病対策や冷害注意などの放送を流すので、このシミュレーションを町にも共有していただいて、要注意の時は「放射性物質拡散注意」の放送を流していただけないか、近々町に提案してみようと思う。
 外仕事はやめにして、パソコン仕事でたまっていたこと、お手紙の返信などで一日過ごした。次々と片付いていって、気分も上々。南向きの窓から空を見ると、やはり雲の動きは南からこちらに向かってきている。


2011/3/26
3/26朝の様子。雪が梢にまでついて美しい。


 ここまでかなりいろいろ詳細に覚書を書いてきましたが、このあたりで一旦震災の覚書は終了することにします。本来のこのブログの目的、七ヶ宿の私たちが暮らす中で、日々出会う美しい風景、素敵なもの…などを、画像を中心に紹介していく形に戻します。よろしければ、引き続きご購読下さい。

3/21
2011_3_22

 昨日家内からもらったらしい風邪が悪化する。いつもの散歩、マンサクが咲いていてほっとする。ここのところ日課になっているサイトチェック。宮城県、山形県のモニタリングデータ、武田邦彦氏のブログなど。毎日パソコンと対峙する時間が増え、その中身が深刻だったりすると、具合の悪さも手伝って、少しゲップ状態。しかし収集しないわけにもいかない。集中力は続かず、午前中にわざわざ仙台から炭を買いにくるお客さんがいたのでその分だけ準備して少々寝込む。昼に炭のお客さん来訪、なけなしの燃料を使ってこんな山中まで来ていただいたのに、譲ることのできたのは3俵で恐縮する。通常の顧客先に納める分などを考えるとそれが限度。申し訳ない。お客さんは飲食店をいくつも経営しているようで、その中に2.3店舗炭を使う店があるらしい。これを機に販路拡大なんちゃって具合悪いくせにスケベ心もちらほら。他にも数件同じ類いの飲食店さんからの問い合わせもあったが、物流が営業所間のみの営業であることを伝えると、取りにはこれないということでキャンセル。
 具合は悪くなるばかり、本格的にふとんを敷いて寝込む。ひたすら寝込む。薪運びやボイラーの点火も家内にお願いした。家内もあまり快方には向かっていない。彼女も動いては横になるというのを繰り返していた。夕食後、これではいざという時動けないと困ると、いつだか風邪をひいた折に処方されていて残っていた薬を飲むことにする。症状は以前とは違うだろうが熱冷ましの分だけ服用し早々に床に入る。この度の震災でトランプゲームの「アメペ」をすっかり覚えた息子は、家内も私も今日は参加できないのでブルーになっていた。根本治療ではないし、西洋治療の薬なので対放射能のための免疫力を落とすことになるかもしれないとも思ったが、この際仕方がない。午後10時頃目が覚めた。熱は下がり食欲も出た。ヨッシャ!

3/22
 今日から町内の保育所、各学校が登校再開。夕方雨が降る心配もあったので、子ども達は休みにしようかと考えたが、娘は登校したくて仕方ない様子。もう一度天気を調べると降るのはもっと遅い時間になりそうだったので、「おれはいかない」という息子は居残り、娘のみいつものスクールバスの乗車場所まで送る。散歩を済ませて、今日一日の予定を考えた。身体を動かしたい、炭を焼きたいところだが、風邪は抜けきっていないので、自重することにして、3/15までに終える予定だった確定申告の書類づくりをすることにする。国税庁のサイトで確認すると、この度の震災の影響で期限までに提出が不可能と思われた場合は延長申請をしなければならないようだった。
 知人から、貴重な情報が届いた。以下転載

------------------------転載ここから。
情報送ります。
本来気象庁が発表すべきシミュレートがフランスから出ました。
 _フランスIRS放射性物質拡散シュミレート
現在、12日16時〜20日4時までの放射性物質の拡散状況が見られます。
(システム条件によっては閲覧できない場合もあるかもしれません/セキュリティー、クッキーあるいはポップアップの許可などあるかもしれません)
http://www.irsn.fr/FR/popup/Pages/animation_dispersion_rejets_17mars.aspx
忌野清志郎の予言が聞けます。
http://www.youtube.com/embed/aJdMa1VI0do

賛同メールを送って下さい。
_福島原発の「廃炉」を求める有志の会
http://fukushimahairo.web.fc2.com/

------------------------転載ここまで。

 フランスのシミュレーション動画を見ると、3/15の雨の時には結構関東方面に放射能の拡散があったようだった。すでに、というよりは原発は事故でなくとも、常に放射能を拡散している。間違いなく。以前福井の大飯原発近くでラーメン屋をしていた友人がよく地元の漁師さんから奇形の魚をいただいていた話もある。当然、それは巡り巡って世界中に拡散される。空や大地に境はない。すべてつながっている。どれだけ危険でどれだけばかばかしい発電方法かということは、この際広く知られるところになった。背回ってきた情報によれば、今回の計画停電の原因は原発のみならず、多くの火力発電がやられたこともあるようで、これはあまり報道されていないということだった。日本の火力発電所は、現在半分以上休止して、それらをフル稼働させれば、真夏のピーク時でさえ停電は起きないともあった。
 家内は、件の激害地で被災した前任地が七ヶ宿の小学校の先生への支援物資を運ぶ段取りが遅れていたので、方々関係者に連絡を取り午後から仕分け作業に小学校に行っていた。心配した雨は降らず娘が帰宅。PTA会長さんの要請で、登下校はウィンドブレーカーということになっていたようだった。ヘルメットまで持たされてきた。教育長さんとも家内が電話で話したが、あまり神経質になって他とは違う対策をとるのは難しいらしかった。結局は自分のことは自分で守るしかないということか。
 明日こそは炭焼仕事再開。窯を補修し山へ伐採に行こう。
3/20
 明け方2時ころだったろうか、ふと目を覚ますと、電気は復旧しているのに、家内は居間でロウソクの灯りで書き物、携帯メールをしていた。うちまで逃げてこいと応援してくれた九州の知人からのメールを開いていた。海外のメディアでは原発事故現場で決死の作業をしている彼らのことを「FUKUSIMA50」と名付けて応援しているらしい。震災後のことを少し振り返る余裕が出てきた。家内は最後の晩餐になるかと思った3/18夜のことを語った。世界の終末のような気がして震えが止まらなかったと言った。最後だから家族で愛に満ちた時間を過ごしたいと思っていたとも言った。3/19の夜明けは格別だったとも言った。私は彼女と同じその感覚が地震直後の第一夜にあった。自分では落ち着いているつもりなのに、妙な胸騒ぎが治まらなかったのを思い出す。原発と炭窯を同列にするのは何だが、私の場合は穴が開いて火を噴いてしまいかねない炭窯のことと、原発事故のことがシンクロする部分もあって、3/13に無事炭出しをすることができたことで、その胸騒ぎはひとまず落ち着いていたと彼女に語った。

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雪融けが進む山。木の根の周りから土が見え始める。

 3つの歌が思い浮かんだ。

 うつしみは よしくつるとも とこしえに
 むすぶこころの かわるものかは
(矢追日聖)
 いたつきの ゆえにもくちん いのちなり
 みのりにすてば うれしからまし
(宮沢賢治)
 ひのもとの くににうまれし かみのこよ
 よきたねをまけ のにもやまにも
(出口すみ)

 1番目の歌の矢追日聖師は、「おおやまと」という日本の神ながらの本流を受け継ぐ方(すでに故人)。「かみのまにまに」という大倭の根本教本の最初にこの歌が掲載されている。顕幽一如、夫婦円満、つまりはみんな仲良く暮らそうやと説く。誤解を恐れずにいうならば、宗教は基本的にみな究極的にはそこを説いているような気がする。日聖師は地球上のあちこちに日の丸が立って神ながらの日本の姿が世界平和の礎になる啓示を見ていた。
 2番目のご存知宮沢賢治のこの歌は帰幽直前に詠った2首のうちのひとつだったような気がする。法華経信奉者だった賢治は死を前にして法華経を埋めるべく山の名前を手帳に書いた。大好きな屋久島の詩人故山尾三省さんの「野の道」に詳しく書かれていたことのうる覚え。もう一度読み返してみよう。「みのりにすてば うれしからまし」と放った賢治が、原発事故現場の作業員さん達と重なるような気がした。
 3番目はいわゆる新興宗教の草分け?(私の理解は十分ではないので間違った表現になっていたらばお許し下さい。)の大本の2代教主出口すみさんのもの。綾部の大本の聖地に行った時、石碑に彫られてあった。今回のことで、やはり日本人は特別な役割を担わされているように感じた。

 いずれも私の拙い理解での、都合のいい切り取り的な列挙なので、心苦しい部分が多分にあるが、「やっぱりそうだったのか」という想いと「これでよかったんだ」という想いと、ここ七ヶ宿での山暮らしをさらに深めていくほかはないと、家内と確認した。まだまだ夜明けまでは遠く、もう一眠り。
 朝のニュースで原発事故現場で決死の地上からの放水作業に当たった隊員の方々のインタビューが放映されていた。愚直なまでにたんたんと状況を説明する総隊長さんが、記者から奥さんとのメールのやりとりの詳細を尋ねられて、その精悍な表情を崩した。一気に私も家内もこみ上げてしまっていた。テレビに映る隊員さん達に合掌、ありがとうと泣き崩れた。今、こうしてこのことを書いていても涙が込み上げて来てしまう。その決死の作業は今も続いている。
 散歩をすると今日は随分暖かい日。雨が午後には降りそうなので、濡れないように注意しよう。一旦は子ども達を散歩に誘ったがもう少し控えることにする。早速毎朝チェックしている武田邦彦氏のブログを見る。氏の文章からも少し安堵している様子が伺える。ガイガーカウンターを早速「チェルノブイリ救援中部」にメールで注文。おそらくは殺到していると思うので、入手できるのはいつになるかわからない。「チェルノブイリ救援中部」のサイトで菜の花プロジェクトというのを見つける。「土壌中の放射能を“菜の花”で吸収して荒地を耕地に再生、さらに、“菜の花”からBDF(バイオディーゼル油)、BG(バイオガス)を生み出すエネルギー自給型農地再生プロジェクト!」というもの。これは希望が持てる。

「チェルノブイリ救援中部」
http://www.chernobyl-chubu-jp.org/pg156.html

 震災から今日まで買い物には出なかった。今日は子ども達と家内で、比較的測定値の低い山形側に買い物に出かけることにする。家内はほっとしたせいか風邪気味になったようだった。雨が降らない午前中にと思ったが、家内は出かける前に家の中が片付いていないと出かけられないたちなので、結局出発は10時半を回っていた。相変わらず、時間を甘く見る癖がある。私はパソコン仕事も早々に、午前中は炭焼再開のために、燃料を節約して除雪してなかった玄関前から炭窯までの除雪を除雪車で行う。一気に暖かくなったので雪がしまって重くなっている。我が家の小さな除雪車ではやや馬力不足だと思ったので、一通りだけ除雪車で除雪し、あとは炭窯に置いてあった運搬車で圧雪しながら道を広げた。伐採現場の山に続く道も圧雪しておいた。一通り運搬車で歩いておけば、雪融けが進んでもズボッと雪に穴をあけることが少なくなるので、運搬車で歩きやすくなる。ほっておくと、どうにもならない雪道になってしまうこともある。いつものカッパ上下にマスクにゴム手袋だったので汗をかいた。昼食は一人だったので玄米ご飯にごま塩で済ませた。日課の昼寝をするがいつもよりも長く眠っていた。身体がなまって疲れるのも早い。汗をかいたのを甘くみて着替えなかったので、家内の風邪をもらったのか、のどの奥が「来たな」という感じで急いで着替えた。今日の外での作業時間は3時間くらいと決めていたが、風邪をこじらせてもいられないと思い、外仕事は控えることにした。ほどなく家内と子ども達が帰宅。イオン系列はものがなくて、ヨーク系列はものが豊富だった、ガソリンは相変わらず枯渇状態ということだった。
 メールのやりとりの中で、国際炭やき協力会の広若さんから「ancientfutures」(懐かしい未来)というメーリングリストをご案内いただき早速参加。そこから回ってきた投稿で原子力資料情報室が政府に申し入れた文章が紹介されたものがあった。原発は一進一退のようで少し不安になる。何度も風向きや各地のモニタリングデータを確かめる。今のところたいした変化はない。新潟方面に仙台から避難している友人に新潟方面のガソリン状況を聞くために携帯に電話。山形の鶴岡方面でガソリンを入れて他の友人ともそこで合流する予定だとの話を聞く。少し気持ちがぐらつく。覚悟したつもりでもやはり脆いもんだと思う。というか、なにか緊張の非日常が続き何か飽和した混沌状態の様相でもある。通常にはない不思議な疲労感があるせいかもしれない。夜は地区の若者会の集まりがあったので、降り始めた雨の中濡れないように注意して消防の詰所へ。地区の仲間の顔を見るとやはりここを出て行くわけにはいかないとも思った。戻ってから家内にやっぱり出て行くわけにはいかないと思ったことを話す。万が一、測定値が上がってやばくなったら、町内の知り合いには連絡してから出ようということで、緊急脱出時メール送信者リストを、準備すると必要なくなるというおまじないの意味で作成することにして眠ることにしよう。家内は少し風邪が進行した模様、半身浴で身体を中から暖め、生姜湯を飲んで「治すぞ」と言って早めに床についた。
 白砂青松再生の会の小川眞先生から、放射能と炭の関係について、炭の防御効果の確証を得るべく情報収集した旨のメールをいただいたので、転載する。小川先生から白砂青松再生の会のメッセージも届いていたので、そちらは水守人の会のブログに転載します。ぜひご一読を。
水守人の会ブログ
http://mizumoribito.blog133.fc2.com/



佐藤 光夫様
……炭と放射能について、確実な情報を探してもらうために、以下のようなメールを日経とNHKの知り合いに送りました。



何かできることがあるのではと思っていて、炭が放射線防護に役立ち、活性炭が
放射性核種を吸収するという話を思い出しました。一つはチェルノブイリ事故の
一年後だったと思いますが、筑波の研究室へウクライナとロシアから二人の医師
が外務省の紹介で尋ねてきました。爆発後子供にヨードを飲ませたところ嫌って
吐くので、老人たちが消し炭をすりつぶして飲ませていたといいます。不思議に
思って便を調べると、極めて高い値が出たので、食物に含まれていた放射性核種
を吸収排泄することが分かったということでした。私が炭と微生物との関係を調
べているというので訪ねてきたのだそうです。
もう一つは、10数年前のことですが、オガライトを炭化して、白炭を作っている
奈良炭化という製炭業者が、炭の粉が大量に売れたと教えてくれたことがありま
す。この炭は商社を通じて米軍に届けられたといいます。劣化ウラン弾を使った
イラク戦争が起こる前だったので、ベストやマスクに入れるためだったようで
す。憶測も交じる話ですから、確実ではありませんが、東海村で事故が起こった
時も中性子やガンマ線を通さないので、炭が使われたと聞きました。
昨日届いたメールも転送いたします。私には情報収集する手立てがありませんの
で、お調べいただけないかと思って書きました。以前放射線医学総合研究所の吉
田さんたちがキノコに含まれるセシウムの量を測定するのを手伝ったことがあり
ますが、何か手掛かりがあるかもしれません。防衛省の研究所も多分知っている
と思います。
放射能汚染におびえている人やこの後農作物などに被害が出ることを考えると、
後の対策を急ぎます。このテーマを以前関西電力に提案したところ、うちは関係
ないと一蹴されました。よろしくお願いします。
小川

3/19
 うそのようにいつもの朝のような気がして目が覚める。じっともしていられないので、今日は外で何の仕事をしようかと考えるが、外出は控えた方がいいことを思い出して、カッパ上下、ビニル手袋、マスクのいつもの格好をして犬の散歩だけして、中でできることに頭を切り替える。気分を変えて昨日からカッパの上は買い置きしてあった新品のヤッケを下ろした。これから新しい時代が始まるような予感もある。


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山の樹々に朝日が当たり始めていた。上の方から順番に、下の方はまだ日が当たらない。樹々が日光を待ちわびているようにも感じた。私たち人間は移動できるが、樹々は移動できない。尊敬する「白砂青松再生の会」の小川眞先生(炭と菌根で各地の松を蘇らせている)も同じことを書いていたのを思い出す、というか受け売りになってしまった。本当のところ感情があるかどうかわからないが、そのときそのときの環境でひたすら命を営んでいくしかない。不安があっても移動はできない。酸性雨の雨が降っても、放射能が飛んできても、酸性雪が降っても。
炭と菌根でよみがえる松炭と菌根でよみがえる松
(2007/07)
小川 真

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 今朝はいただいてきた牛乳で砂糖抜きのカフェオレをいただいた。この上なく贅沢。免疫力を高めるためには正食玄米といきたいところだが、我慢をすると免疫力も下がると考え、厳密にこだわらないようにする。我が家流である。
 様々に原発事故現場の作業員自身のことなどが伝わってきている。それを広く伝えたくて「福島原発事故現場作業員さん達に祈りを!!」ということで、メッセージの転載配布をすることにしばし没頭する。各県が公開を開始した放射線の測定データをサイト上で確認した。昨日よりは下がっているようだった。
昨晩も隣の地区のガソリンスタンドで今日9時から給油をするという防災無線が入ったので、9時半頃ゆっくり出かけたらもうないということだった。ガソリンは往復10キロ分無駄使いしてしまったが仕方ない。それにしても天気がいい。昨日持ち上がった七ヶ宿ゆかりの先生がいる激害地の避難所への物資の独自輸送を町で検討している旨の報が教育委員会から入る。嬉しい。すでに友人の湯原小学校PTA会長さんに連絡して、会長さんから皆に連絡をまわしてもらっていたので、後は具体的な集荷方法、運搬方法などのやりとりも会長さんと役場で直接打ち合わせてもらうことをお願いした。こういう時はサイズ別に梱包しておくと、被災地に届いてからすぐに使えるので楽らしい。それも連絡事項に入れるようにお願いしてある。あ、うちは湯原小学校のPTAの現会員ではなかった。(娘は中学、息子は保育所なので)そんなことはどうでもいい。
 昔からの友人知人、脱原発に少なからず関わっていたり、田舎暮らしやエコロジーに関心のあることがわかっている人などには、様々に有益だと思える情報を流すのはなにも心配もないが、PTA仲間などにこういったことを伝えるのは結構きわどい場合もある。伝えようによっては変人扱いされかねない。シャッターが下ろされれば、次に明けてもらうにはなかなか難しくなる。普段からうちがどのようなライフスタイルを願って暮らしているかを、その考えを押し付けないようにすることはいつも気を遣っていること。考えや理念をかたくなに主張するだけではまずうまく伝わらない。楽しそうにしていれば向こうから興味をもってくれたりもする。ただこれはノウハウではなくて、方法論でもなくて、相手をどのように思ってあげられているかということの裏返しなのだとも思う。わかってくれないといって、相手のせいにはできない。いつも答えは自身の中にある。教育委員会、役場にも、ある程度情報は流したが、果たしてどのように受けとめてもらえるか。国の指導もあるだろうし、きわどいところでもある。そんなこといってられない場合もあるが…。22日から登校を開始するということだったので、登下校の天気が気になった。雨にあたらないほうがいい。放射線の量によってはカッパ上下、マスクの着用を指示するよう要請する必要もあるかもしれない。家内もPTA仲間に改めて電話をして、「あんなメール送ってびっくりしなかった?」とフォローしていた。うれしいこともある。学区の小学校のPTAの飲み会はマイはしマイコップが常識になりつつある。合成洗剤の使用を止めて石けんを使う人も少しずつ増えている。国分寺エクスペリエンス「世界のおかあさん」という歌があった。「♪世界のおかあさんはおんなじ気持ち〜」のサビがしばらく頭の中を渦巻く。
よかったら聞いてみて下さい。


http://www.youtube.com/watch?v=U9hOLR7lIb8

 炭のお客さんからも数件連絡が入った。毎月ある程度まとまった量の炭を納めている炉端焼きやさん、牛タンやさんなどから、営業再開した時のための炭を確保しておいて下さいとの確認だった。それぞれ被災をしている。ガスも使えないらしい。取引先がダウンすればうちの炭の売り先も減るということなので、ありがたいことだった。3/15に連絡用に投函しておいたハガキは届いていないようだった。

 震災後注視している中部大学の武田邦彦先生のサイトに以下の記事がアップされていた。参考になると思うので、以下に転載する。
http://takedanet.com/2011/03/post_c118.html
------------転載ここから
原子力情報 03 放射線量の計算が簡単に
読者の方から放射線量の計算のページを送ってもらいました。ご本人のご了解もいただいています.
http://shimatec.jp/calc.php
にアクセスしてみてください。
そして、計算値をご自分でも確認されると、今後の福島原発の状態や線量と見て、行動の指針になるかも知れません。
ただ「安心だ」と繰り返す政府に頼らずに、私たちは私たちで正確な値をもって、安心して生活をしたり、赤ちゃんのことに責任をもとうと思います.
(平成23年3月19日 9時 執筆)
------------転載ここまで

転載したが、午後にもう一度ジャンプしてみたらリンク切れになって記事が消えていたので、なにか問題があって武田先生の方で削除したのかもしれません。計算してみる場合はその点を考慮に入れて考えて下さい。いいかげんなことですいません。

 お昼のニュース。放水活動に向かう隊員が作業車に乗り込み出発するところが映った。若い人の姿も何人かあった。隊員の方々の決死の覚悟を回ってきたメールで読んでいた家内は泣き崩れた。子ども達にしっかり見るように言ったが、ふざけて遊んでいた子ども達には事の次第はあまりわからなかったかもしれない。一般に女性は感情主導、男性は理論。ということは逆に感情に身を委ねやすい、理論に身を委ねやすいということも言える。感情だけでも理論だけでもない、なかなか真ん中のところは難しい。補い合うしかない。分かち合うしかない。
 外に出したくない、出せない息子の退屈さ加減もテレビだけでは埋められなくなってきている。中学生の姉は勉強などしてやり過ごしているが、まだ保育所年長でふだん活発に外で遊ぶ息子はそうもいかない。家内も携帯でメールのやりとりが多くなり慣れないタイピングで時間がかかるので、息子の話を聞くのが遅れたりして、息子も少し甘え顔でふくれる。じゃあ、昼から思い切って放射線の測定値の低い山形方面への買い物も検討してみるが、そんなことしてるうちに雨が降り出した。ネットで雲の動きを確認すると西からの雲の雨だが、測定値のこともあるので、お出かけは中止。私も午後は薪小屋の中で炭の加工の仕事をしようかと目論んでいたが中止する。ちょっとナーバスになりすぎているだろうか。さきほどの計算のページによる結果からすれば2、3時間ならば大丈夫なわけだが、一応原発の事故終息までは念のためということで。息子のみならず肉体労働向きの私としても外で動けないというのは何とも。懸命の災害対策に奔走している役場職員初め、職場に復旧のための片付けの仕事に出ている人もいるので、パソコン仕事ばっかりもしてられないが、雪に触れないようにと思うと、炭窯付近はいいとしても、残雪深い山での伐採はなかなか慎重にすべきかもしれない。まあ、私は日頃お世話になっている気功治療をする整骨院の先生に「佐藤さんは殺しても死なないような人だ」と言われたことがかつてあったので、それを頼りに仕事をしてしまおうかとも思うが、それを見守る家内に制止されるのは想像に難くない。
 まさしく決死の事故終息のための活動によって原発事故の事態はややいい方向へ向かっているような感もある。家内は「気が抜けたようだ」「日本の技術はすごい」とも言った。ニュースで原発のことを確認するのもやや少なくなった。隣の丸森町を去った友人から関西でアパートを借りられたというメールも入った。まだまだ安心はできないので、おまじないの家内の避難用の荷物準備を念入りにしておこうと家内と確認した。聞けば、昆布を配ったのも、「ばっちり準備するとそれが結局は必要なくなり無駄になる」という家内のジンクスからのおまじないなのだそうだ。勘が鋭い人なのでその辺りは任せている。実家の長野に一時避難することに決めた町内の友人の話が入った。家内はうちはどうしようかと少し揺らいだようだった。情報収集したものをもう一度読み返したりする。放射線の測定値を元に計算してみる。さらにインターネットで放射線の放出方法、炭を摂取することの効果を調べ家内と共有する。緊急被曝医療研究センターのサイトでは、体内除染剤、その他備蓄薬品に「薬用炭」として炭のパウダーが載っていた。放射性物質のセシウムが土に残留しやすいようで、終息後の我が家の畑の放射線の測定ができた方がいいかもと、ガイガーカウンターを調べた。品切れの商品がほとんど。「チェルノブイリ救援中部」のおすすめのものが良さそうだった。余裕が出たらぜひ購入したい。そして炭をまいたところとそうでないところで計測比較し、炭まきの効果が出ないか調べてみようと話し合った。気象庁の気象データのデータベースで原発周辺と近隣の白石の年間の月ごとの風向きも調べる。幸運なことに、福島はほぼ海の方向に吹く風、白石も原発方向から吹く風は少ないようだった。家内は安心したようだった。揺らぎも解消し腹がさらに座ったか。としたところで、家内が目を通し、「私は全揺らいでないよ、断じて違う」と、チェックが入る。すいません。

2011_3_19
今日の朝日、雪が照らされて陰影も濃く美しい。


 これまで、慌てて様々な情報を転載して流してきたが、少々冷静さにかけてしまって乱暴だったかと思う節も感じ、反省していたところへ、友人から暖かいアドバイスが入った。放射線に対する食養生の件の塩加減についてである。あの転載文を真に受けて、とにかく塩をたくさん採ればいいんだなと思ってしまうと、かえってバランスを崩してしまうことがあるという点。人によって千差万別で穀菜食では塩加減が本当に難しいのだそうだ。あえていうならばいつもよりやや濃くすればいいということらしい。採り過ぎると危険なこともある。冷静が欠けていました。ごめんなさい。一斉送信していた方々にも謝罪のメールを流すことにする。
 退屈している息子を相手に宝物を隠してそれを見つけるゲームをする。息子は大喜び。少し気はまぎれたようでご機嫌回復。いつもの笑顔に戻った。名前通り大丈夫(マスラオと読みます)。
 県がネット上で公開するようになった放射線の測定値は宮城県はややアップするのに時間がかかっている。山形県は結構早い。夜になってもう一度確認。宮城県の3/19日分をダウンロードし確認。昨日よりも下がっていて一安心。
前を向いて一歩ずつ。冷静に。
震災後徐々に安心してきた家内は今日初めてパジャマで眠るのだそうだ。(これも家内のチェックで「入れなさい」ということでした。)

こんなメールが来ました。
 ぜひ、多くの方達と分かち合えればと
思います。どんどん広めて下さい。
 
皆さん
どうかお願いがあります
祈りを、皆さんの祈りを
今、福島原発で命がけで 我々の国、この日本を
国民を
あなたをあなたの
家族を救う為に懸命に仕事をしている人々がいます。
 
どうか祈って下さい!
作業が成功するのを!
お願いします!
 
自衛隊特殊化学防護隊の
隊員たちは志願者です。
しかも年齢は55歳からうえ、もう子育ても終わりに近づいて思い残す事は無いと志願者となったようです。
その様な志願者が50名
 
 
時事通信社の記事があります。
東電が全国の電力会社、協力企業に助けを求めました。
志願者です、決死隊として原発の内部作業をする原発関係者のベテランを募ったのです。
中国電力の原発勤務40年というある男性が。
この作業は自分達のようなベテランがやるべきだ、
自分は定年まで後一年であるし、子育ても終わったとして、志願したそうです。
ご家族は静かに思いを語る、自分の夫、父親 の
決意に何も言えなかたそうです。
その方の娘さんは,今までと違う父のもの静かな顔を初めて見たそうです。
志願者20名
翌朝、いつも出勤する時のように。
じゃあ、いってくる。
と言って玄関を出てたそうです。
 
原発での作業中、放射線被爆があります。
国が定める限界被爆単位100シーベルト。
それが250シーベルトになりました。
何故なら、彼等が望んだからです。
 
100シーベルトではすぐ時間が経ってしまい数分では作業ができない。
だから国に250に上げてくれと。
その為の被爆量は覚悟の上なのです。
 
そのおかげで
昨日、あと一歩で臨界点と言う所で臨界が止まったのです。
もし臨界点に達していたら。
私達は今、この時を
この時間を過ごしていません。
家族と恋人と仲間、友人とこの時間が無かったかもしれないのです。
 
半径300キロ生物の生存率は、限りなくゼロ
に近かったんです。
今のこの時間は彼等のおかげなのです。
 
経営側幹部たちは我が身安泰の為、情報を小出しにし、遠く離れた東京から出てきませんでした。
 
お願いです皆さん
祈って下さい!
皆さんの祈りを
作業が成功するように
祈って下さい!
皆さんの想念を送って下さい!
 
今日 放水作業が無事終わりました。
 
明日の作業も成功するように。
隊員たちが無事であるように。
祈って下さい!
 
どうかお願いします!
 
そして家族、友人、仲間、一人でも多く方に知ってもらい
祈ってほしいので伝えて下さい!
お願いします!
〓HASEGAWA〓
3/17
 昨晩から雪は降り続いていた。早朝いつもどおり町の除雪車が来てくれた。除雪車のエンジン音は、緊急時でなくとも安堵感のわく音。窓から覗くと、いつもよりは早めに引き返していく。燃料節約のためと思われる。それでも山奥に1件だけ離れたうちまで来てくれるということは、本当にありがたい。担当の寿(ひさし)さんは、除雪技術が大変優れている。本当にきれいにいつも除雪をしていってくれる。散歩に歩くとつるつるしてひっくり返ることがあるほどだ。子ども達のソリ遊びには最適。今はそんなことはできないが。さしづめちょっと幅の広いボブスレーコースといったふうになる。昨日夕方に電気が復旧したわけだが、当初は2週間以上かかるだろうとも言われていた。この素早さは信じ難い。そういう体勢があることに驚く。世界でもまれなことだろうか。

3/17_4

 明るくなって、できるだけ燃料を節約したかったので除雪車は使わないつもりだったが、散歩に出ると雪は膝まであった。これではいざという時に時間がかかってしまうと除雪車で除雪することにした。車が通る分だけ、必要最小限で。雪にはできる限り濡れないように気を遣う。ついでに薪をコンテナに4杯運ぶ。寒いようなので少し多めに。何回も外に出るのは危険だと判断した。いざという時に備えて避難する時の荷物づくりを家内は始めた。「準備すると結局使わないことになるから、これはおまじないなのよ」と子ども達に話していた。
 友人が送ってくれたメールにあった放射能から身を守るための食養生を参考に、昨晩から玄米にごま塩の食事にしていた。久しぶりの玄米がおいしかった。試しに飼い猫のミー(17年生)に鰹節をかけて与えると、玄米を食べた。
 私が楽天的なのか、いいかげんなのか、私からみて家内のナーバスさはややゆるくはなったようにも見えるが…。脱原発運動を少なからず経験したことで、政府や電力会社が発表するデータに大変な不信感があり、どうしても勘ぐりしすぎるくらい勘ぐってしまう癖があるようにも思う。原発の状況は相変わらず危機的だが、絶望的ではない。絶望してはいけない。いわずもがな、これから世界のエネルギー政策は変わっていかざるを得ないと思う。成長しなければならない現在の経済システムは、その成長の糧が必要となる。喰われるところが、搾取されるところが、必要になる。勝者は敗者がいなければ存在しない。格差がなければ現在のシズテムに成長はない。そして最終的に喰われているのが、自然環境であり、化石燃料だったり、安い人権費の第3世界に人々だったりする。自然の回復力に合わせてその分を糧にできればいいが、そんなにうまくはいかない。その上に成り立っている現経済システムは、お金を動かすだけで、なにも労働しないで儲けている人がいる。唯一お金だけが老化をしない。持っているだけで増えたりもする。借金も持っているだけで増えていく。原発で出る猛毒のプルトニウムでさえ、半減期が24000年、このシステムが環境破壊、盲目の経済発展、物質文明、原発をささえている。その成長の糧をとりあえず無限と思われる太陽エネルギーなどに求めれば、少しはこのシステムも延命はするだろう。電力事業も自由化され、もっと小規模の電力会社が生まれてもいいのではないだろうか。近々「エンデの遺言/お金を根源から問い直すこと」(NHK出版)を読み返してみよう。

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 昨晩の電気回復とともに、インターネットなどを通じて集まった情報の中から、これはと思うものを選択し、必要であろう人たちに流す作業にしばし没頭した。時折テレビニュースで原発の状況を確認する。原子力資料情報室のサイトからの情報で、昼の後藤政志さん(東芝・元原子炉格納容器設計者、工学博士)が生出演する番組を食い入るように見た。唇が震えていた。やばい状況に変わりはない。「人体に影響は無い」と言っているいわゆる御用学者さん達の中には耐えきれなくて自殺する人もでるのではないかとさえ思った。いろいろ参考にしながら、子ども達の被曝に備えて注意すべきことなどをまとめ教育委員会にメールで流すことにする。
 午後、近隣の白石に住むわが炭焼の師匠、佐藤石太郎さんから電話が入った。安否が気になっていて、町が出している臨時のバスで様子を見に行こうと考えていたところだった。放射能を心配する家内に対して、師曰く「放射能のこと心配するのはやめっぺ。死ぬときは一人二人でなくて、みんな一緒にいかれっから何にも心配すっことねぇ」二人とも大爆笑。やはり師は偉大である。師は今年数えで91、だてに歳はとっていない。一瞬すべての不安を吹き払った。
 子ども達を外に出してやれず、テレビで漫画を見れば時折私たちがニュースを見せろと横入りしてチャンネンルを変えられるので、息子は不満がたまっていた。家内は言って聞かせた。息子は脅されて泣いた。脅したわけではない。真実を家内なりに伝えたわけだが…。しばらくふさぎこんで、やがて大好きなお絵描きを始めたようだった。出来上がった絵は、外に出られるようになったらお祝いに作って食べるケーキを描いたものだった。小さい身体にけなげな前向きさを必死にひねり出した。いい絵だった。本当にこの絵のとおりのケーキを作って食べることを約束した。

3/17大丈夫絵

 数日前もらい湯に来た橋本さんから電話があり、買い物中だからなにか買ってくものあるかと、嬉しい内容。昆布と天然塩、味噌をお願いする。ありがたい。昆布はあるだけと頼んで、家内は小分けにして、子どもがいる町内のPTA仲間に配るという。松島あたりに地震発生時いたという情報を得ていた友人から電話が入った。聞けば、小高いところに登って何を逃れ民家に泊めてもらい、そのご3日は家にもどらず救助をしていたという。道路が寸断されていたので地元の消防団の方々と山を刈り払い、山越で帰宅したという強者ぶりだった。彼は炭焼仲間でもある。
 今日も夕方の犬の散歩はしないことにし、ウッドボイラーに火を入れる。ウッドボイラーの水温は5℃。ウッドボイラーは我が家の風呂と台所の給湯を担う重要な設備、薪でおよそ200リットルの水槽の水を沸かし、その中をフレキシブルのステンレスのパイプが20メートル分コイル状に入れられている。沸かした湯がそのまま蛇口にくるのではなく、パイプの中を水が通ることで熱交換をしてお湯が出てくるという仕組み。薪の投入口は40×30センチほどあり奥行も80センチと長く、太い丸太もそのまま投入できる。夕方一回燃やせば、翌日夕方まで台所での洗い物程度の給湯も可能の優れものである。燃焼補助のための電気の送風機はあるが、滅多に使わない。電気に頼らないで済む。だから被災直後もうちでは入浴できたわけだ。この熱交換は、つまりは原発も同じ仕組みなわけだが、いっそ薪ボイラー発電というのもあるのかなと思ったりもした。
 普段通りの夕食、入浴ができていることに感謝。長野の原さんから、事故現場の東電社員さんからのメッセージが届き、涙する。急いで私が送信可能な方に転載送信する。夜には原発への地上からの放水も始まったという臨時ニュースも入り、そんなこともあって家内は泣き崩れた。私はかなり平常心になってきているつもりだが、家内はまだそうでもないらしい。無理もない。あとで聞けばこの日の晩餐がこの家での最後のものになるかもしれないぐらいに考えていたらしい。にもかかわらず、疲労に耐えかね、早めに家内は眠ってしまっていた。思いもかけず遠方の友人知人から連絡が入ったりして、状況を伝える。つながりが財産である。

3/18
 昨日夕方の町の防災無線で、町民に限り1世帯1回2000円分の給油を9時から開始するとあったので、9時頃いけばいいかと考えていたら、友人から早く並んだ方がいいよと電話が入り、少し早めに出ることにする。
3/18_2
地元の消防団が交通整理し、券を配って順序正しく給油が行われた

 昨晩も20センチほどの積雪があった。除雪と散歩は早朝に済ませておいた。天気はよかった。9時過ぎに戻ると、原さんからドイツのメディアが作成したという動画の情報が届いた。安心できる情報だった。地区の酪農家が牛乳を出荷できず廃棄しているので、希望者には無料であげているという情報も入り、家内は昆布を配りがてら、牛乳をバケツ1杯いただいてきた。早速沸かしてカフェオレをいただく。もちろん放射能防御のための食養生で砂糖抜き。

▼ドイツのメディアが放射線が風にのってどのように流れたかシュミレーションした動画(14日〜15日)
http://www.spiegel.de/images/image-191816-galleryV9-nhjp.gif

 いろいろ情報のやりとりをしているうちに、あっという間に時間が経つ。何もすることがないようでいて、忙しいようでもある。有益と思われる情報をできうる限り分かち合えたらと思うと、ゆっくりもしていられない。知人の知り合いの知り合い(面識はない)から玄米や味噌などが送られてくるという話も飛び込んできた。ありがたい。ただし、物流は止まっているので、1週間ほどしたら宅配業者の営業所に取りにいく必要がある。ガソリンの供給は復旧している可能性はあるが、原発の状況次第では?でもある。気持ちが嬉しい。激害地で避難所生活をしている、数年前まで町内の小学校に赴任していた先生から下着の送付を求めるメールが回ってきたので、町に相談するが今のところ運ぶ手だてがないらしい。仲間の中では早速に段ボール箱5つも準備したという方もいるようだ。営業所まで持っていっても、激害地向けということだと受け取ってもらえないらしい。はがゆいことこの上ない。
  様々に誤摩化すものではなくて、冷静に相手の身になって伝わってくる情報などによっても、安心を得られるようなものも増え、家内は随分落ち着いてきたと、自分でも言っている。激害地はまだまだで、原発さえ落ち着けば何か復興の手伝いになることをしにいこうと、家族で出かけようと子ども達にも話したが、それにしても、この日本の復旧の早さは驚異的だといえる。様々に地球規模で応援をいただいていることはもちろんだが…。
 小水力自家発電の実現への意欲が高まってきた。ヤギやニホンミツバチ、鶏も飼おう。やることは山ほどある。夢を持って前を向けば、免疫力も高まり、放射能から身体を守ることにもつながる。少しかじった漢方医学によれば、病原菌を問題にしなくとも、こちら側を立て直せば自ずといのちは治癒に向かう。
 今日は通常どおりの場所で眠ることにしよう。
2011.03.17 3/16分覚書
昨日は、慌ててしまったため、かなり乱文乱筆のまま覚書をアップしてしまいました。まあ、この度も対したものではありませんが、3/16日分の覚書と、昨日までの画像、また、緊急的に友人から福島原発現場の実名のリポートが入りましたので、こちらだけでもぜひぜひ読んで下さい。

まずは昨日までの画像
3/12
3/12の朝の林に朝日が差し込んだ風景です。

3/13
3/12の散歩風景

3/13
3/13つるとりに夢中になっている家内と息子、散歩は私にまかせっきり

3/14_1
わがやの頼もしいソーラー,30枚、最大出力4.59kw

3/14_2
難を回避し、無事炭出しを終え、窯を空にできた状態

3/17_3
外出時の格好

3/16_2
3/16朝、屋内からサッシ越しの風景、湿り雪が積もりました。


ここから3/16分
3/16
 重い湿った雪の朝だった。樹木の幹から枝までしっかりと雪がついて、風景がとてもきれいになっていた。どんなことがあったとしても、やはり世界は美しい。あまり吹雪いてはいなかったので、少し遅めの犬の散歩をする。もちろんマスク、カッパ上下、ビニル手袋の格好。今日は夕方散歩できないかもしれないことも見越して、少し距離と時間も伸ばして散歩する。ソーラーには雪が乗っていたので、散歩終了後、また雪の落ちきらない屋根に上り、パネルの上の除雪を手が届く範囲で行う。ついでに薪もコンテナに2杯運ぶ。しっかり雪を払って家の中に入る。例のごとく「朝日よ出よ(いでよ)!」と朝日乞いのセレモニーをして茶化してみたが、息子には「またやってるの」と笑われてしまった。結局この日はパネルの雪を下ろした後も少し降雪があったので、朝テレビニュースを視聴できるようになったのは8時半くらいだったか。原発の状況は以前鬼気迫るような状況だ。朝食時に、家内が自分の分をやや少なめにしたりすると、息子は健気にも家内に自分の分を分けようとしたりする。この状況の中だからということではなく、彼は普段から母親を守ろうと思っていることが多いように見える。家内は地震直後の不安で胸がいっぱいで食べられなくていたら、胃袋小さくなったみたいで少しおなかいっぱいになると、震災ダイエットなどと、腰の贅肉が取れてきたことを笑っていばってみせたりしている。
 なかなか、この覚書を記録するのもしんどくなってきている。調子が悪いわけではない。すごぶる元気である。ただ、もともと身体を動かすのが向きな私としては、事務仕事が続くのは大変しんどい。背中が痛くなったりする。でもそんなことも言ってられない。放射能の雪なので外には出られず、他に身体を動かすような仕事もない。自治会長さんが班の世帯分の新聞を持ってきたので、すぐさまご近所さんの様子も見がてら4件分配達。情報がないのは不安である。一面は福島原発の鬼気迫る内容のものだった。なくても不安だがあっても不安は消えようがない。弱いながら雪が降り続くので、もう一度屋根に上がりパネル除雪をした。しかし、雪は降り続くので、結局電力足らずで、ついたり消えたり、めんどくさいのでコンセントを抜いてしまった。
 この覚書を、ネットがつながったらすぐにでもアップできるようにと、加筆修正などしながら過ごす。その時その時書き留めておこうと思い浮かぶことも、なかなかすべてを覚えていられない。ほとんどはどんどん流れていってしまう。それでも記録しておくことも子ども達にとっても大事なことかもしれないと思いなおして、出来事のトピックや考えたことなどの簡単な目メモをしたりする。
 午前中は家内が限りある食材の中から工夫して、昼食に合わせてドーナツを揚げることになった。生地を練るのは家内、型抜きをするのは息子がやった。娘は昼食用のパンケーキの生地を練る。プロパンガスは使用可能だったが、節約して、薪ストーブで炭を熾して七輪に移し油をはった中華鍋を載せる。今日の炭は地震発生時窯の中にあった木である。「被災した炭」と冗談めかしてみた。油温は上々、ドーナツが見事に上がる。おいしそうなものが出来上がっていく過程を見る子ども達の表情は本当にまぶしいくらいの幸せ感があって、こっちまで幸福になる。甘い匂いが立ちこめた。バットにあげてきび砂糖をまぶす。おいしそう!!一方娘の焼くパンケーキにはマッシュしたクリの剥き身を入れてみた。クリは一昨年の秋に私が夜なべして剥いたものだった。ただでさえ小さなヤマグリを、ごつごつの手でかなりの時間をかけて剥いたもので、それをフリージングしてあった。冷凍庫特有の臭いがついていて少し心配したが、なかなかおつな味となった。ドーナツは一回で全部食べないで、毎日少しずつ食べることにした。普段から家内はお菓子づくりを子ども達としているので、子ども達も楽しみにしている。パンケーキとドーナツの昼食は、あまりにおいしく、食べることに集中していたので皆無口になり、いつになく静かな昼食だった。ここで、第3夜だったか、冷凍庫の中にあったタコを腐らせてはもったいないと、ロウソクの灯りの中で夕食後タコ焼きづくりをしたことを思い出した。これは翌日の朝食になった。炭パウダーは毎食後服用している。
3/16

 雪の降りが強くなってきたので、外仕事は厳禁、ソーラーの自立運転もままならないので、ゆっくり過ごすほかはない。何度も携帯のアンテナが立つかどうか見てみるが、今日はずっと圏外のまま。昼食後、炭パウダーを服用。味もなんにもない。この日からは毎食後炭のパウダーを服用することにした。午後2時半ころだったろうか、突然圏外のはずの家内の携帯からメールの受信音が聞こえた。一瞬これはどういうことかと考える間があった。もしかしたら、電気が復旧しているかもしれないと、直感した。受信できたメールを喜ぶ家内を横目に、急いで切っていたブレーカーを上げ、通電を確認。「ついたついた。よかったね。」と家内は大声で喜んだ。急いでソーラー自立運転のコンセントから通常のコンセントに差し替えた。なにかまたすぐに停電してしまうような気がして、早く送信したいことを送信しなければと、妙にあせってしまった。落ち着いて、ひとつひとつ、コンセントを差し替えた。メールを開くと大量にメールが入っていた。様々に心配して下さる方々からのメールが多い。原発や被爆などの正しい情報についても様々にアドバイスする内容のものもあった。家内とパソコンに入ったメールを共有した。電気が使えている不思議さを思いつつも、まずはざっと流し読みをする。被爆に関して長野の友人から、長崎原爆の爆心地近くで被爆した人も面倒をみた医療関係者も、玄米や塩などの食養生によって原爆症を発症しなかった話が、大変有益に思え、家内は彼女の携帯電話に登録されているアドレスのほとんどに転送しようと、しばし携帯と向き合っていた。近隣のやや距離的には事故原発に近い丸森町のIターン組のうちの赤間君から、その地区のIターン者は、ほぼ全員その地を去ったことを知らせるメールも入っていた。九州の玄海原発でいわゆる現場労働の経験者である知人から、うちに逃げてきなさいと、一家族くらいなんとかなるからと、至急逃げて避難をすすめる内容のものもあった。家内から「うちはどうする」と切り出した。一瞬間をおいて、「ガソリンはあまりないし、遠くにはいけない。第一、どこにいっても同じだと思う」と答えた。完全にそれでいいと結論を出したわけではない。楽天的に言ったわけでもない。彼女も揺れている。私も同じように内心は揺れている。この吹雪の中、拙速に逃げたとしても車に給油することができるかどうかわからない。見つからなければ寒い中、どこかの避難所に厄介になることになるかもしれない。離れるのはしばらくだとしても、犬達は連れて行けない。ばたばた動くよりは、ここにいればしっかり食養生をできるだろうが、出てしまえばそれはおそらく叶わないだろう。他にも安否が気になっている人などに電話をかけまくったりもした。安否確認できた人もいた。不明な人もいた。
 外は吹雪で夕方の犬達の散歩は食事だけにして断念することにした。ごめんなさい。ボイラーに火をいれるには一旦外にでなければならないので、今日も入浴は諦めた。電気がついている不思議さがなかなかぬぐえない、というかなかなか慣れることができない感じ。メールのやりとりをひとつひとつ応じたりネットで情報収集する中で、いろいろ参考になったことがあったサイトや情報を以下に紹介する。

グーグルのパーソンファインダー:安否情報がいろいろ探せます。
http://japan.person-finder.appspot.com/
中部大学の武田先生のページ:福島の原子力発電所の情報を出しています。政府やNHK,東電がごまかしていることも指摘しています。
http://takedanet.com/
よくわかる原子力/原子力教育を考える会:放射能の身体への影響、ヨード剤の正しい使い方など詳しく説明してあります。
http://www.nuketext.org/manual.html
原子力資料情報室
http://www.cnic.jp/
大塚晃志郎さんのブログ/緊急重要メッセージ!原発事故による放射能汚染から、身を守る可能性を高めるために、すぐにできることを実行しよう!
http://otsukako.livedoor.biz/

 切迫した原発の状況はほとんど変わっていない。放射線を現す単位シーベルトも結構いい加減に操作されている。数値がが大きければ単位を1000倍のものを使えば小さい数値になる。時間あたりの数値も年間あたりにしてごまかせる。明らかにパニックにならないように操作している。落ち着いて正しく情報を受け取らなければならない。家内は子ども達にも、ゆっくりと時間をかけて事の緊急性を伝えた。中学1年の娘はあまり表情を変えなかった。息子は少々不安がった。無理も無い。でも伝えないわけにはいかない。娘は相変わらず勉強に励んでいた。結構肝がすわっているということか、それとも何も考えていないだけか、そんなわけがない。気丈にも気をそらしていただけに違いない。ロウソクの夜ではなくなったが、恒例トランプ大会は開催された。不思議に明るい電灯の中で、インターネットで様々に情報収集を夜遅くまで行った。前向きに生きていくしかない。不安をかき立てるもの、冷静に事実を伝えようとするもの、そんな中でも光を見てこの世界を愛そうと呼びかけるもの、様々だった。その後もメールのやりとりや電話も数件続いた。外気に極力触れないようにした方がいいことは確かだったので、寝床の位置を、私が窓側になるように配置換えし眠った。今晩は冷え込むようだった。

3/16分ここまで

続いて福島原発現場の実名のリポート
送ってくれた友人の紹介分も合わせて転載します。涙が止まりません。



★★原発事故で問題解決に取り組んできた実際の現場の方からmixiを通じて、現場の方々が、どれだけ懸命に、まさに自分たちの命をかけて、必死にがんばっているかについての体を張ったレポートを入手しましたので、ここにお伝えします。皆さんは、現場の命がけの努力を肌で知るべきだと思います。読んでいて、私は涙がとまならくなりました。そうですよ、一番最悪のもっとも危険な被爆のリスクにさらされながら、それを承知でがんばっているのは彼らです。ああいう東京電力のような巨大な組織では、組織に都合のよくないことは、平気でもみつぶされてしまいます。この方は自分の全存在をかけて、現場でがんばっている人たちの弁護をしています。私には、よくわかります。私はそういう人たちこそ、彼らの命がけの捨て身の努力に報いるためにも、なんとか助けてあげなければならないと強く思います。読んでいて、涙が止まりません。こういう人がいるからこそ、日本は紙一重のところで救われているのだと思います。年収1億円を誇るあるネット実業家は、さっそく日本に見切りをつけて、わが身大事とばかり海外に逃げ出しました。おそらく原発現場の作業員の方々は高い給料などもらっていないと思います。それでも、使命感から命がけで取り組んでくれています。ほんとうに、ほんとうに頭が下がります。ほんとうに皆さん、ありがとうございます!


★★★ みなさんへ
2011年03月15日21:36
今日の朝方 発電所から避難させられ福島の親戚の家で家族と合流しました
とりあえず私は無事です
お前だけは安全な所へと言われ泣きながら企業さんの車で発電所をあとにしました�
本当にこのような事になってしまい本当に申し訳ありません
東電はすごく叩かれてる�
でも逃げずに命懸けで作業を続けてるのも東電です
どうか非難しないで下さい
私も東電の社員として福島第二原発の所員として昨日まで現場対応にも参加してました
大津波警報で夜中の3時足元も見えないまま死ぬ覚悟で海の目の前での復旧作業�
冷却機能のある機械は海側のため津波でやられてしまいなんとか復旧しようとみんな必死でした
みんな疲労と戦いながら足を引きずりながら作業にあたっていました
冷却機能を復旧できなければ第二原発も第一原発のような爆発が起きていました
それを防いで全号機冷温停止させたのも東電です
発電所を見捨てて逃げればこんな状況では済まされません
逃げずに立ち向かっているんです
津波の影響は想像を遥かに超えていました
地震だけであれば第一原発の爆発も起きなかったんです
みんな自分の命を顧みず 停止する作業に全うしてます
多々噂があるけど避難勧告の圏外にいれば健康に影響ある程浴びる可能性は低いです
健康に影響がある程浴びるのは発電所で頑張ってる作業員のみんなです
殆ど寝ず食わずで現場に行っています
噂に左右されず 避難勧告圏外へ避難して外気になるべく触れないようにして下さい
彼氏は今もずっと発電所で夜勤を続けてます
今はただ皆の安全を祈るしかできない�
一番怖いのは発電所で作業している皆です
逃げずにそれに立ち向かっているのは東電と関係企業さんです
家族との連絡がつかない人もたくさんいるけど現場へ向かい作業をしてます
それだけは忘れないで下さい
一人でも多くの人に知って欲しい
悪用防止の為コピーではなくURL公開して下さい
発電所のみんなは逃げずに今も戦っています
住民の皆様には不安な思いをさせて大変申し訳なく思っています
誹謗中傷覚悟の上で名前も載せます
皆を守る為自分の命と引き換えに今も作業をしている人がいます
こんな状況ですが 自分の命を顧みず立ち向かっているみんなを見て 一緒に復旧作業に当たることができて 東電社員であること 福島第二原発所員であることを誇りに思います

東京電力
福島第二原子力発電所
電気機器グループ
大槻 路子

以上
転載ここまで










2011.03.16 3/16昼での報告
3/11
午前中は町内唯一の中学校、七ヶ宿中学校の卒業式に来賓(教育委員)として出席。お昼に終わって、帰宅後昼食をとり、日課の昼寝をした後、炭の仕事を開始。今日の午後からの作業は前日に出した炭の袋詰め。3/13には仙台駅隣接のホテルで開催される予定だった「東北割烹研究会」の60周年の総会での太鼓の演奏を依頼されていたので、その翌日には炭が出せるようにと、窯の加減もしていた。白炭の場合は窯が暖まったその熱を利用して焼くので、焼く場合はとにかく、原木が続く限りは炭を出したら間髪入れずにすぐに、窯の石が赤く焼けている中に原木を立て入れ、次の炭を焼くことになる。通常は中2日開けて焼き上がるように調整するが、何かの都合で中1日で出したい場合は、クド(煙出し)の塞ぎ加減、窯口の塞ぎ加減を少し大きくして、いくらか早く炭化が進むように調整などをする。今回は木曜(3/10)の夜に炭を出したので、月曜(3/14)に出すとすると中3日だが、出したのは夜だったので、中2日半という感じで、早く炭化が進んでしまうと炭が無駄になるし、遅らせようとブレーキをかけすぎると止まってしまう可能性もあるので、なかなか悩ましい状態だった。そんなことを気にしつつ、NHKラジオでなんともならない国会中継を聞きながら、炭の袋詰めを開始。半分ほど炭の袋詰めが終わったところで突然緊急地震速報の警戒音が鳴った。どこで地震だろうと人ごとのようにも一瞬感じたが、なにか直感的に危ないというような感じもよぎったので、少し急いで炭小屋の外に出て、家内の円がいる自宅の方を見た。窯と家とは50mくらいの距離。次の瞬間ぐらぐら地面が揺れ始めた。拙宅奥の棚田の崖側の箇所の土砂崩れの復旧工事をバックホーを使って土木工事をしていた建設会社の人たちが「危ない、逃げろ」と叫んでいるのが聞こえた。炭窯から自宅の方に走って向かう途中で、家内が拙宅から走って出てくるのが見えた。そして拙宅から4.5メートル離れたところで待っていた私のところに彼女がやってきた。その刹那、立っているのがやっとくらいの強い揺れが始まった。二人とも家の倒壊が怖くて家を見つめた。かなり家もグラグラしているように見え、「これは終わったか」との想いもよぎった。「お願い!止まって」と家内は震える声で言い、私はなぜか昔覚えた観世音菩薩のマントラ(真言)「オンムニペメフン」を小さく繰り返していた。周りのナラの木がユッサユッサと波打った。地面がチャプンチャプンといっているようにも感じた。このまま立っている大地ごと崩れてしまうのではとも感じた。少し揺れが収まったタイミングで、玄関脇に駐車していた自家用車の移動を家内に指示し(家屋が倒壊した場合下敷きになると動きようがなくなるので)、私は、携帯電話やなにか身の回りのものをと、被害状況によっては何か応急でできることもあるかもしれないと、中に入った。皿数枚が床に落ちていた。冷蔵庫が動いたようで、その後ろにある建具が引っかかってあかない。冷蔵庫をずらして戸をあけ、風呂やトイレ、洗面所を確認。幸運にも特に目立った損傷はないようだった。
 また外に出て、二人とも自分自身に「落ち着け」と念じ、まずは中学校と保育所にいる子ども達を確保することを考え、まずは息子のいる保育所に向かう。道すがら、数人の地区の方々が外に出ていた。特に壊れている家はないように見える。5分ほどで息子の通う保育所に到着、園児と保育士さん2名が全員外に出て待機していた。息子は私の顔を見るなり「俺んちも揺れた?」と聞いてきた。その顔にはまだ恐怖を味わったような表情はなかった。これから子ども達と指定の避難場所へ移動するということだったので、娘が帰宅するのに乗ってくるバスの時間も考慮し、家内を残し私のみで車で中学校がある関地区に向かった。途中見えた山も家も道路も特に被害はないように見えた。娘が乗るであろうバスと行き違いにならないように運行路を注意して逆行すると、バスが来るのが見え、車を停め運転手さんに合図し停車、無事娘を確保。娘を乗せて家内と息子が待つ湯原地区へ移動、再合流し、すべての園児の保護者が来ていることを確認して解散、帰宅。移動中、名古屋の私の両親に無事の連絡をとることができた。この時点ではまだ携帯電話がつながっていた。
 さてこれからどうしようということで、冷蔵庫の備蓄が乏しいということで、夕食と食材調達を兼ねて山形方面にいこうと、この時点では少しのんきに考えていた。犬達の散歩も明るいうちにということで済ませる。散歩中に見た空は異様に静かだった。不気味だった。満ちているのは悲しみなのか怒りなのか…。不気味に静かで止まっているように見えた。ジブリのアニメ「風の谷のナウシカ」で、盲目のシャーマンの老婆が「大気が怒りに満ちておる」といっていたクライマックスの場面を思い出していた。人をその毒(瘴気)で拒む腐海の森は、実は大気を浄化していて、奥底の地下には正常な土が重ねられていっていた。
 停電していたので、帰宅した時に困らないようにとろうそくや懐中電灯を玄関に準備して出発。ラジカセを見てみると電池対応でなかったので、ラジオも購入しなければならない。暖房用のストーブの薪も薪小屋から運んでおいた。外は吹雪になっていた。今日(3/11)は3/13の演奏にむけての太鼓の練習を夜に予定していたので、メンバーの顔を見ながら中止の連絡をしようと、町内のメンバー宅をそれぞれ回りながら山形に向かう途中、ラジオで山形方面も停電していること聞く。いってもしょうがないと判断し、自宅に戻る。その帰路家内の家族とも電話がつながり無事を確かめ合うことができた。懐中電灯をもって気になっていた窯をじっくり見に行ってみると、窯の前の上の方で、通常煙が出ない場所からも煙が出ていた。窯の後ろへ回って天井部を点検してみると、小さな地割れのようなヒビが入っているのを確認。天井部の土をかき回すようにして、ヒビをなくして応急処置をし、前の煙が出ている場所は金棒で少しつついて空洞を埋めるようにして処置をする。後ろのクド(煙出し)と前の窯口の開口部をびっちり土で塞いで、できるだけゆっくり進むように、あるいは運が良ければ炭化が止まり、安全な状態になるように処置をする。このまま炭化が止まらなければ、空気が中に入って燃焼が進んでしまい、最悪穴が空くと火を噴いて小屋が炎上し火災になりかねず、それがとても気にかかる。炭小屋の周りはまだ深い雪なので、「燃えても炭小屋だけで済むや」と家内には気丈に言ったが、内心とても心配だった。
 戻って夕食の準備をしようとすると水がもう濁っていた。黄土色の細かい土で色がついている状態。試しに布を蛇口にまきつけてみるが効果なし。コーヒーの紙フィルターでも濾せないくらいの細かさの泥。夕食はストーブで食パンを焼いて食べる。昨夜のカレーの残りもあった。外の雪を鍋に詰め、ストーブの上で溶かし水をつくり、それでインスタントラーメンも作って食べる。プロパンガスは大丈夫。夕食中、消防団幹部は役場に集合の召集が防災無線を通じてかかり、夕食後軽トラックに乗って吹雪の中役場へ。発電機による灯りだけの暗闇の役場の2階の会議室で会議。町内各地区の消防団幹部、役場の課長さんたち、町長、議会議長、駐在さん、自衛隊の派遣隊員が集まっていた。大きな被害はなさそうだった。長期戦になりそうだとの話もあった。役場も対応に苦慮しているように感じた。当然のことだろう。
 情報がないと不安になる。ラジオは買えなかったので、炭窯で使用しているほこりだらけのラジカセを取りにいってみるが、電池が足りず断念。仕方なく車のラジオを定期的に聞くようにしていた。なにより、福島原発のことが気になっていた。炭窯のことも気になっていた。最初の揺れの時に感じた恐怖は、思い出せば、なにか正直この世が終わってしまったのではという感じもあった。
家族も守らなければならない。放射能がやってきたとしてもどこにも逃げ場はない。じたばたしても仕方がない。実に様々なことがずっと頭の中を駆け巡っていた。不安がる息子には家内が不安にさせないようにと、「大丈夫、生きているんだから」と何度も言い聞かせていた。布団を敷いたが、余震に備えてすぐに脱出できるように備え、普段着と上着も着込んだままで布団に入った。緊急用の荷物も車に積み込んだ。
 何度も何度も強い余震が続いた。疲労感はもちろんあり、布団に入るが眠れるわけがない。恐怖を感じていないつもりでも、余震が来るたびに心拍数が上がるのを感じた。身体の奥に恐怖がしみ込んでいるのを感じた。なかなか緊張はほぐれない。ほぐれようがない。
 子ども達はなんとか眠りについたようだった。眠れない中布団の中でしまいこんだ防水ラジオがあったのを思い出し、息子のオモチャのラジコンの電池をはずして装填。感度がかなり悪いが、ラジオを聞くことができるようになった。何より福島原発のことが気にかかり、と二人でロウソクの灯りの中、ラジオに聞き入る。受信状態が安定しないので、周波数を調整するつまみを慎重に動かして聞けるところを探す。福島原発の状況はあまり良くないようで、余計に眠れない。どこへ逃げてもたいした違いはない。ここで同じように暮らしていくしかない。何年か前に見たチェルノブイリ事故現場近くの地域のドキュメンタリー映画「ナージャの村」を思い出す。大地が被爆していても、今までと変わらない暮らしを続けている人々の姿を思い出す。地図を引っ張りだしてきて、福島原発からのここまでの距離を確認。おおよそ90キロ方角は北西方向。風向きはどう影響するだろうか。ますます眠れない。普段お酒は飲まないが、仕方なく焼酎をオチョコに半分程度ぐいっと流し込んで布団に入る。

3/12
 なんとか眠れたのか気がつくと外はまだ暗かった。起きるたびにラジオを聞いて確認。そうこうするうち、4時半ころだったろうか、20センチは積雪があったので、いつもの町の除雪車がやってきた。その灯りとエンジン音に妙に安堵感を覚えた。窓からロウソクの灯りで合図をした。ありがとう。またうとうとするが、気がつくとかなり明るくなっている。すぐにラジオを付け原発の状況を確認。かなりやばい状態は変わっていないようだった。朝が明けたことにもとても勇気づけられた。明けない夜はない。なにがあってもいのちの営みは止まることはない。宇宙の営みは変化し続ける。すぐに炭窯の状態を確認。なんとか大事には至らなさそうだった。うまくいけば明後日当たりに炭を出せるかなという感じで、窯の中を空にさえすればこちらはもう心配はない。
 マスコミや国が流す情報はかなり統制してあって、住民がパニックにならないように情報操作しているはずなので、あまり信用は置けない。かつて私も家内も20年も前になるが、六ヶ所村の再処理工場に六フッ化ウランが初めて搬入されるという時に座り込みをした経験などもあるので、そのあたりのことはある程度察しがつく。あのときは翌日に強烈なあの台風13号が青森を直撃し、リンゴ農家が甚大な被害を受けた。弘前城の大木が根こそぎ倒れていたのを思い出す。
 朝8時半に地区の消防詰所に集まって、地区の自治会長さんらと一人暮らしの方々の安否確認などを打ち合わせることになっていたが、犬の散歩を済ませ、心がはやり8時前に家を出る。途中ご近所さん数件に声をかけながら詰所へ。副分団長の功さんと一人暮らしの世帯10戸ほどの安否確認をする。ここで一旦家に戻る。積雪があり屋根に雪は乗ったままだったが、天気がよかったので昨年4月に設置したソーラーの自立運転が使えるかと思い、パネルの上の雪だけでも早く落とそうと考えた。雪がまだ落ちていない屋根を、ソーラーのパネルからのケーブルをたよりに、車の積雪を除く為のブラシをもって、棟に上がる。棟にまたがったまま、手の届く範囲で順番に雪をよける。半分くらいまでしか届かない。パネルに乗ると傷める恐れもありこれ以上は危険なので屋根から降りる。早速自立運転にテレビのコンセントを差し込み直しスイッチオン。昨年末からひかりテレビになっていたが、それ以前のパラボラアンテナも生きているので、そちらの系統でBS放送を視聴できるはずだった。見事画像が出た。各地の悲惨な状況が放送されていた。ラジオでだいたい把握はしていたが、映像を見て改めて息をのむ。ただごとではない。水のありがたさ、火のありがたさ、太陽の力のありがたさを想う。津波被害地に比べれば七ヶ宿は全然たいしたことはない。
 再度10時頃、消防団員も数名、地区の役員さん方も詰所に集まり、しばし情報交換。役場も何組かチームを組んで各地区を回っているようで、その他町長なども訪れ励ましと今後の見通しなどの情報を共有する。地区の方々はどの家も食料備蓄は十分にあるようで、水道が不調になっても昔山などから引いていた水道が生きていて、結構気楽に構えている方が多かった。「(いままでと)何にも変わんねえ」と放った老夫婦もいる。自宅に車で戻ってお昼。保育所の保育士さんも2人組で園児宅を回っているようで、来宅していて一緒に昼食をとる。
 いつもの日課では昼寝をするところだが、昼食後すぐにインターネット接続を試みた。光ケーブルの屋内の終端末装置(ONU)に電気がいけば、つながるのではと考えた。自立電源のコンセントから延長コードなどを使って配線を整え、パソコンを立ち上げてトライ。行けそう!メールの受信を確認。すぐに自分たちの安否を関係者に知らせようと、アドレス帳のなかから送るべき人を選択しすぐに送信。その後、スカイプを使って固定電話や携帯に通話できる手続きをネット上で直ちに済ませ、まずは名古屋の両親にパソコンから電話をかけた。通話できた。無事を報告。岩手、宮城の思い当たる人にもコールしてみたが、通話不能。県外ならばつながるだろうと、甲野さんの携帯にコール。お互いの無事を確認し、ツイッターでこちらの無事を流していただくことをお願いする。「七ヶ宿はおそらく大丈夫だろうと思っていましたよ」と甲野さん。直後、数人からすぐに安否確認のメールなどをいただき、すぐに返信した。太陽光の実力に感服しつつ、他になにかこのネットを使ってできることはないかとあれこれ考えた。その小さな身体に不安いっぱいの子ども達も少しリラックスできればと想い、ひかりテレビのチューナーに接続、見事つながり視聴できたが、子ども向け番組はなく予想通りすべて地震情報の番組になっていた。娘は自分のIpodの充電に余念がなかった。
 震災当日に途中になっていたまだ袋詰めが終わっていない炭を片付けないと次の炭出しができない。インターネットは最低限のことだけにして、炭の袋詰めの作業をする。炭を触って少し心も落ち着いた。疲労はたまっている。
 ロウソクの灯りの中夕食を済ませ、私はそのまま沈没、家内は子ども達とトランプに興じ眠りについたようだった。熟睡とまではいかないが、昨晩よりは眠ることができたが、2.3時間おきに目が覚め、その度にラジオに聞き入った。

3/13
 身体を休めることができた実感のある目覚めだった。ネット環境が昨日のように大丈夫なのであれば、必要な人に教えてあげようという想いもあって、接続確認をするが、昨日とは違ってONU装置のPPPoEにランプがつかず、接続できなかった。息子が毎週日曜日の朝楽しみにしているゴウカイジャーと仮面ライダーが見られるかどうかで、前日のソーラー自立運転の電力の様子から息子もかなり楽しみにしていた。しかし朝では電力がやや不足だったのと、ネット環境が整わないことがわかり視聴不能ということで、息子はすっかり落胆した様子。涙まで流してくやしがっていた。これまたジブリの「もののけ姫」のジコ坊がクライマックスで放った「朝日よ出よ(イデヨ)!!」を真似て茶化してみたがご機嫌はなかなか治らなかった。
 8時にはまた消防で、地区の一人暮らしの高齢者の見回りをすることになっていたので、朝食を簡単に済ませ家族4人そろって消防の地区詰所に車で向かうことにする。詰所は地区公民館と隣接していて、この日はちょうど地震発生の日に亡くなった方の葬儀があり、喪服姿の関係者の顔がちらほらあった。私が見回りをしている最中に、家内と子ども達は地区のPTA仲間などを訪ね情報交換、小さな地区の商店で買い物をしていた。帰宅し、窯の状態を見にいってみると炭化が終了し、精錬をかけ始めればあと数時間で出せる状態になっていた。今日は無理をせず、明日にしようかとも考えたが、窯に穴が開いて火が噴くのも怖いので、炭出しすることとしクドを引き始めた。夕方5時にも消防の見回りをすることにしていたが、炭出しをする都合で無理なので、その連絡を2キロほど離れた功さん宅に知らせにいくことを家内に頼む。朝時間がなくてできなかった犬の散歩を私と家内と息子とでする。息子に楽しみをと、家内は息子とツル採りをするしながらの散歩。4月から小学生の息子には、昨年のクリスマスに私たち夫婦から手ノコをプレゼントしていたので、以前に贈った小さな屶と合わせて、こんな時はいさんで腰ひもを結んで、屶とノコを下げ散歩に向かうのが常である。のんきなものだとも思いつつ、何があってもこの美しい世界を美しいものとして暮らす、当たり前に暮らすことの大切さを想う。腰に屶とノコを下げツルを採っている息子のまなざしを見ていると、これでいいんだと強く想った。大地は汚れても、大気が穢れても、いのちの営みはたんたんと続いていく。その時できることをしていくしかない。
 30分おきぐらいのスパンでクドを少しずつ明けやがて全開、次は窯口を少しずつ崩して精錬をかける。窯の中に空気を少しずつ送って炭を熾し、温度を上げる工程。出すことができるくらいの温度(約1000℃/炭の色で温度を判断する)が上がるまでは通常6、7時間はかかる。家内はガソリン節約のため、道すがらツルなども採れるようにと、カゴさげて歩きで出発。放射能よけにフードを被り、マスクもして出発。
 明るくてソーラー自立運転の電力が使えるうちにと、今回のことを記録しておこうと思い立ち、この文章を書き始めた。ネットがつながれば、順次ブログなどにもアップしていきたいと考えた。しばらくして1.5キロ離れたお隣さんの工藤さんの奥さんが子ども達二人とともに来訪。テレビを見に来たと言う。家内が道すがらうちでテレビ試聴可能ということを伝えていったのだそうだ。娘の遍は午後は数学の勉強をしていた。普段はテレビを見ていることの多い彼女だが、どういうわけか勉強をしていた。それをみて工藤さんがびっくりしていた。工藤さんは食い入るようにテレビをしばし見ていた。しばし近隣の町のガソリンスタンドや商店の様子などの情報交換をする。天気はいいので、時折ネット接続を試みるが、やはりうまくいかない。サーバーや中継のところでの予備電力がなくなったということか。
 工藤さん達が帰って、午後4時やっともう少しで炭を出し始めることができそうな状態になった。精錬作業の合間に薪ストーブの薪をコンテナに2杯運んでおいた。今日は随分水もきれいになってきたのでお風呂に入れるかも。家内はまだもどらない。4時半さて出し始めるというところで家内が帰宅。家内と検討して風呂を沸かすことにし、さっそくウッドボイラーに火を入れる。
 炭出し開始。1窯の炭を10回くらいに分けて小出しするのが常だが、今回は1回に出す量を少し多めにして、なんとか明るいうちに作業が終わるようにと、炭出しの作業を急いだ。作業中つくづくいい仕事をさせていただいているとこれまでの運びや導き、様々なご縁に感謝した。午後6時前なんとか暗くなる前に作業終了。これで窯の火災の心配は全くなくなったことになる。作業中娘の中学校の校長先生がラーメンとシャーシューを届けてくれた。生徒達全員に懸命に調達した食料を分けて配っていただいているらしかった。本当にありがたい。
 炭出し作業はほこりまみれの仕事なので、作業終了後そのままシャワーを浴びる。なんという贅沢。ありがたい。夕食後、続いて家内と子ども達も入浴。その最中、家内が送ろうとして送信できないでいた数件のメールを送信トライ。珍しくアンテナが3本立ち、送信完了できた。直後、送信先のひとつであった県庁に勤める義兄(家内の姉のだんなさん)から電話も入る。しばしお互いの状況など情報交換し、無事を確かめ合った。家内の実家は窓ガラスなどが数カ所割れたりするなど被害があったようで、義父母らは義兄宅に身を寄せているとのことだった。地震直後に比べれば随分とゆったりと構えていられるようになったが、なんといっても気がかりだったのは福島原発のことだった。家内は子ども達の前では不安を与えてはいけないと気丈にしているが、震えが止まらないでいたという。ロウソク生活第3夜も家族でトランプに小1時間ほど興じ眠りにつく。

3/14
 鬼気迫る原発の状況が常に気になってはいるが、考えているだけではなんともならない。情報がないのも大変不安になるが、へたにテレビからの地震報道を見続けていると、逆にまいってしまう面もある。この日は朝6時53分からテレビの視聴ができた。ソーラー自立運転開始。
 快晴の朝だった。朝食後犬の散歩に娘以外の3人で出ると、息子の大丈夫(ますらお)と家内は、ツルを採る気にばっかりなっている。家内は私以上に原発の状況に対してナーバスになっているはずなのに、外へ出ると開放的な気分になっているようだ。無理もないが、放射能が怖いのならば、ツル採りなどしている場合じゃないのに、そのアンバランスさに彼女の追いつめられた精神状態が現れているようにも思えていた。それでも懸命に耐えようと、我が家に今ある食材をどのように腐らせないで有効に使っていくかと、いろいろと算段して段取りをしていた。ネット接続を数回試みるが今日も無理なようだった。放射能がおそらく間違いなく飛んできている状況だと感じたので、この日の朝から、小さじ1杯の炭のパウダーを朝食後家族全員飲むことにする。放射能の排出に炭が有効だという話を以前聞いたことがあった。ミルク缶で4.5缶分はありそうだ。なくなれば、ソーラー電力でグラインダーを使って作ることもできる。
 私たち夫婦はとも、80年代後半から勢いづいた、いわゆる脱原発運動を経験している。私の場合、1988年は教職に就いた年だった。しかし就いたものの教職は離れるつもりになっていた。混沌としていた。そんな時、宮田雪監督のドキュメンタリー映画「ホピの予言」を見る機会に恵まれた。アメリカインディアンのホピ族に伝わる予言を基軸にしたドキュメンタリーで、物質的な文明ではなく、人類は精神的な道を歩まねば破滅するといった主旨のものだった。広島長崎の原爆に使われたウランは彼らが暮らす大地から採掘されている。原爆投下を知って、長老達が緊急に集まり、ホピ族に伝わる予言を世に現すことを決めたのである。この映画を見て、当時の私は教員を辞める決心がついた。勇気をもらった。涙を流した。
 ウラン採掘地はなぜか世界各地の先住民族が暮らす大地に埋蔵されていることが多い。そして採掘作業に駆り出され、彼らは被爆し多くが癌で死んでいる。石油もそうらしいが、多くの犠牲の上に私たちの物質文明はのっかっている。1991年、六ヶ所村の核燃料サイクル施設の是非が問われる青森県知事選挙があり、それに合わせて、ウラン採掘現場のネイティブの方々などを青森に招いて、そのいのちの声を聞いていただく「国際ウランフォーラム」が開催された。主催者が高校生の頃から購読していた雑誌「80年代」の出版社「野草社」であったことで、スタッフ協力の依頼などもあって住み込んで動いた。そこで家内と巡り会った。ホピの予言の宮田さんがインディアン達を日本に呼ぶために奔走した。フォーラムの最後に核燃料サイクル施設で平和行進をし、ゲート前で参加していた様々な宗教者などがそれぞれの作法で祈りを捧げた。日本山妙法寺の僧侶は「」を唱えた。禅僧は「般若心経」、神父は聖書を、神道者達はそれぞれの言葉で。
 午前9時、同地区の親しいPTA仲間の橋本由華さんが子ども3人をつれて徒歩で来訪。携帯の充電がてらテレビの視聴をしにきた。昨日家内が歩いて回った時に気軽にどうぞと言っていたようだ。彼女からこの日の朝なら町内のガソリンスタンドでハイオクだが10リットルまで入れてもらえると教えてもらい、さっそく私は軽トラック、やや遅れて家内は乗用車でスタンドへ向かい給油していただくことができた。幸運なことだった。私はすぐに戻ったが、家内はいろいろ地区の方々と情報交換しながら、携帯の充電を頼まれてやや時間かかって帰ってきた。かなり暖かい日でふとんも干した。風もやや強かった。北風のようなので、福島からの放射能は少なくて済んでいるかもしれない。空はすべてつながっている。11時頃橋本ファミリーが帰宅。放射能が怖いので、マスクを提供し皆にしてもらった。彼女にも炭の商品の加工時に出て貯めていた炭パウダーを持っていってもらった。
 午後は昨日出した炭の袋詰め作業。全部で9俵くらいだろうか。半分くらい済んだところで同地区の神尾さんが届け物がてら炭を2俵買っていく。灰も欲しいということだったので渡す。代金をまた支払にくるというので、「ガソリンもったいないから、今度合った時でいいですよ」と伝える。今回は2俵譲ってしまたが、今後もこのように買いにくる人が増えるような気もして、譲るのは一人1俵の半分ずつまでということにした方がいいかもしれない。作業を終えて家の下屋にある裏口に行くと、家内の表情にかなりのやばそうなものを感じる。福島原発の状況が悪化したらしい。
 家内は生来、目に見えないものを感じたりするなど、その辺りの感覚が鋭い時がある。女性特有の、特に母親特有の感覚の力だと思われる。知り合いのことが頭に浮かぶとその人から電話が来たり、感じて身体の一部がいたくなったりすることが、これまでもいろいろあった。原発の状況悪化の報以降、彼女は左腕がしびれてきているらしい。
 子ども達のいない下屋で二人きりになり、目をみた刹那家内の表情が崩れた。ハグしあった。強く抱きしめあった。彼女は「子ども達をどう守ってあげたらいいかわからない」と泣き崩れた。気丈に平静を保ってきたその緊張の糸が切れた瞬間だった。「大丈夫」というしかなかった。「チェルノブイリの後だって俺たちは生きているんだから」「放射能なんかに負けてらんないよ」「ここで生きていくしなないんだから」「どこへ行っても同じだよ」とも言った。しばらくの間強く抱きしめた。大丈夫だと思うしかなかった。少し落ち着いて家内は「120年生きる予定だったけど100年になっちゃたかもしれない」とぎりぎりの冗談で返した。目には涙がいっぱいだった。そのまま犬の散歩に行こうとする私に「私のためにマスクはしていって」と言った。マスクを付け表面がツルツルがゆえに放射能がつきにくいとされるカッパを纏い犬達といつもの散歩コースへ。戻ってボイラーに火をつける。
 夕方5時半過ぎ、PTA仲間でもあり消防団の私の上役にあたる功さんファミリーが車で来訪。子ども達二人をお風呂に入れにきた。子どもらはともに小学生で明日登校するかもしれないから風呂に入りたいということでやってきた。子どもらが入浴中、テレビを見ながら近隣市町村のスタンドやお店の情報交換をしていると、娘の同級生の大介君がホワイトデーだクッキーを母親の車に乗せられてわざわざ届けにきた。こんな時になんとである。暗くなって6時前ついにテレビは視聴不能に。夜もう一家族もらい湯にくるかもしれないと言っていた工藤家は結局訪れず、就寝前の恒例のトランプ大会を行い眠りにつく。

3/15
 夫婦二人ともまだ暗い明け方少し早く目が覚め、布団の上で少しゆっくり時間をかけて家内のマッサージをして上げる。腹這いになった家内の、足の裏、かかと、ふくらはぎ、お尻、背中から肩にかけて、じっくりほぐすようにマッサージをする。余談だが、何年か前の彼女の誕生日のプレゼントにパソコン製作による「ゴッドハンド光夫の永年マッサージカード/当然年会費無料」なるものを発行し贈ったことがあり、それ以来そのカードを提示すれば1日1回に限りマッサージが受けられるということにしていた。私が疲れていなければ、最近は提示なしでも、つまりフリーパスで行うこともあった。
 私も彼女に触れたことによって安堵感がわいた。つながりを確かめた。重すぎる荷物を想った。少しは昨日の心の震えを癒すことができただろうか。
 今朝も朝は私、夕方は功さんが一人暮らしの方を巡回することにしていたので、雨が降る前に終えておきたいと、早めに回ることにする。その前に散歩をと考えたが、小雨が降り出したので一時屋内に戻る。放射能の雨に警戒。家内もかなりナーバスになっている。待っていたら、雨は上がったようだったので、
上下カッパを被りマスクをしビニール手袋をし散歩に出発。午後に降るかもしれなかったので、通常夕方する薪運びも終わらせておいた。7時半には巡回に出て8時すぎには帰宅する。とにかく雨にはあたりたくなかった。昨日用意しておいた炭の取引先へのはがきを、郵便が動いているかどうかはわからなかったが、投函しておいた。一人暮らしの方々は大変元気に見えた。
 テレビニュースで原発の状況を確認する。官房長官の会見。枝野さんは確か私と同い年、眠っていないような疲労感のある表情だった。東京電力の会見、各社記者がいろいろ追求するように質問していたが、せめても仕方がない。東電担当者はおそらくわりあい嘘はついていない。現状を把握できていないのが見て取れる。現場ではおそらく命がけというよりは命を捨てて対処している方々がいるだろう。いまさら責め合っても仕方がない。しかし多いに反省、方向転換していただかなければならない。
 朝食後炭を服用。この覚書を作成中、教育長と中学校の校長先生が来訪。我が家は山奥にひっこんだ場所なので、貴重な燃料を使わせてしまってわざわざ訪ねて下さるのを心苦しく想う。私が教育委員なので、今後の終業それから新学期の日程的なことなど対応の概要を伝えるための来訪だった。ソーラーでテレビを視聴できているのを驚いていた。コーヒー好きの教育長さんにインスタントではあるがコーヒーを御馳走する。「おいしかった!」と多いに満足していただけた。他の教育委員さんのところも回るということだったので、資料の人数分のコピーもできた。炭パウダーも小瓶にひとつ持っていってもらう。
 昼前、町内の隣の地区の友人の小泉ファミリーが来訪。小泉宅は元来テレビはないし、ラジオもなかったらしく、奥さんの由美さんが情報欠乏症といったふうで、大変不安がっていた。話がしたかったという。分け合って一緒に昼食をとる。彼らにも炭パウダーを持たせた。昼食後情報交換をしていると、地区の役員さんの仁さんが回覧用にと配給のあった新聞を持ってきてくれた。小泉君らにも見てもらい、雨が怖かったのでなくなく車でご近所さんに届けすぐに戻る。そんな中、またまた来訪者。仙台からやってきた炭のお客さんの佐藤さん。聞けば炭を購入しにきたという。車に積めるだけ欲しいとのことだったが、うちの再建用の分や町内で必要な場合のことも考えて、1俵のみ譲る。申し訳ない。仙台中心部や、各被災地の様子など詳しく聞くことができた。佐藤さんの車は緊急車両の指定をもらって満タンにできたということだった。話もそうそうに佐藤さんは去っていった。炭パウダーを持っていってもらった。1時半過ぎくらいからとうとう小雨が降り始める。ミゾレ様にも時折なっているようだった。小泉ファミリーも帰っていった。もちろん炭パウダーも持たせた。
 夕方まだミゾレ様の細かい雪が降っていたので、犬の散歩は中止することとし、風呂も沸かすのに外に出ないといけないので、入浴はやめることにした。
 第5夜ともなればかなり慣れた感もあるが、布団に入る段になると多少第一夜の緊張が蘇ってきて不安がよぎったりする。今晩はトランプにやや飽きたので、家内のリクエストでダイヤモンドゲームに興じる、ルールが未だ理解できない息子は参加できず、すねているうちに眠ってしまった。娘は、こんな中妙に数学の勉強に熱中し、ロウソクの中でもゲーム終了後勉強していた。

2011.03.10 残雪まだまだ
2011/3/10

拙宅の奥で土木工事が始まって、雪に埋まっていた道路が除雪されました。息子の背くらいの高さまでの積雪になっていたんですね。木を運ぶために運搬車が通っていたのは息子の頭の高さのところだったわけです。後ろの雪と戯れる犬は、我が家の愛犬「大♂」「吉♂」のうちの「大」。朝の散歩でのショットです。


2011.03.09 冬の伐採
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冬の伐採風景です。木を倒すのは根回りの雪を掘らないといけないので大変ですが、雪が締まって固くなるので、木を集めるのは楽です。

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